質問 18
「宮殿の門」は、外の世界と瞑想の宮殿とをつなぐものです。どうすればこの門を通り抜けることができるのでしょうか。
宮殿の門を通り抜けるためには、因果の法則を深く理解し、それを我が身に体して生きねばならない。それこそが霊性の修養における決定的な力だからである。もし私たちの業縁が世俗の煩悩に絡めとられたままであるならば、たとえ正しい道を見いだしたとしても、その道はなお障礙と困難と試練に満ちたものとなろう。たとえば、正しく導いてくれる真の師に値遇するという幸運に恵まれたとしても、悪業があまりに重いならば、私たちはやはりあの大いなる宮殿の門を通り抜けることができないのである。
過去の不善の業は巨岩となり、茨となり、棘となって、解脱へと向かう道を塞ぐ。歩みを進めてもなお門が見えないのは、業の重荷があまりに大きく、過ぎし日の過ちの重みがあまりに圧するからである。ひるがえって、大いなる功徳を積んできた者は、その道が平らかで、広く、開かれていることを見いだす。一歩ごとに、宮殿の門へと近づいてゆくのである。この聖なる門の本質を、言葉だけで語り尽くすことはできない。
それを見て取るためには、たゆまぬ修行を積むばかりでなく、細やかで、深く、澄んで見分ける心を具えていなければならない。その心があってはじめて、概念的な理解を超えたところに門を看取ることができる。これらの資質はおのずと生じるものではない。それは功徳の果実であり、深い徳と善き生き方とによって生み出されるものである。日々の暮らしにおいて、その徳はもっとも小さな行いのうちに現れる。
たとえば食事をするとき、私たちは一粒の米をも慈しみ、無駄にせず、なおざりにしないようにする。同じように、人と出会うときには、表面を越えて見る力を養いたい。その人の眼差しや微笑み、言葉のうちに映る、語られることのない苦しみを見て取り、その重荷を軽くするようなしかたで、慈しみと支えとを差し伸べるのである。もっとも些細な行いにさえ宿るこの細やかさと心遣いこそ、仏教に説く三千の威儀、八万の細行にほかならない。
こうして積み重ねられた功徳と徳行が、ついには私たちを、宮殿の門を見いだすその瞬間へと導いてゆく。それは因果の法則がはたらいている姿であると同時に、道徳的な誠実さの顕れでもある。それは、生のあらゆる瞬間において、たゆまず己を修め、磨き、高めようと努める者にのみ与えられるものなのである。
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