質問 01
なぜ私たちは瞑想を修めなければならないのでしょうか?
人間は、生まれながらの知性に導かれ、絶えず知識を求め続けている。その探求の根底には、深い理解を通して幸福と道徳、そして究極の真理を見出したいという願いがある。
真理を明らかにするための主な方法は二つある。第一の方法は、脳の認知的思考を活用するものである。情報を集め、データを分析し、証拠を示し、論理を用い、体系的に概念を証明していく。幾世代にもわたる探求を通して、この方法は人類が一つまた一つと真理を明らかにすることを可能にしてきた。
第二の方法は、思考を止め、直観を養い、精神的な洞察力を育てることによって、言葉による推論や説明を必要とせずに真理を直接見ることである。
現代科学は主に第一の方法を採用し、知的分析と実証的検証によって宇宙の神秘を探究している。この方法が目覚ましい成果をもたらしてきたことは、私たちの高度な科学技術文明が証明している。
"私たちが知っていることは一滴の水に過ぎず、知らないことは大海のようなものである。"
この深い洞察は、私たちの科学的知識がどれほど深いものであっても、未知という広大な大海に比べれば一滴の水に過ぎないという現実を物語っている。
さらに、真理の発見は本来、道徳と幸福を育むはずのものであるが、科学的探究によって明らかにされた真理は、いまだ人類をその理想へと引き上げるには至っていない。科学技術が進歩し続けているにもかかわらず、世界は依然として戦争、争い、貧困、欺瞞、病苦に苦しんでいる。
私たちが持つ情報にはなお欠陥があり、論理は不完全であり、理解していると信じている真理も、より大きな実相のほんの断片に過ぎないのかもしれない。科学と技術という柱の上に築かれた文明は、目覚ましいものではあるが、なお部分的で不十分なものである。それゆえ人類には、精神的直観に根ざし、完全な智慧と道徳を備えた文明へと導きうる、もう一つの補完的な道が必要とされている。
心を静め、知的な思案を止めることによって、人は歪みや曖昧さのない、直接的で完全な形で真理を見ることができる。心が静まれば静まるほど、真理はより明らかになる。仏陀のような覚者たちは、心の絶対的な静寂に至ることによって、宇宙の真理をあまねく理解することができたのである。
知的な思案を超えて証得された真理は、その根本において真実であるだけでなく、自然に道徳と幸福という形をとって現れる。なぜなら、真理を得た者は自ずとこれらの徳を身に体すからである。ある人の行いと内なる安らぎを観察することは、その人が真理とどれほど調和しているかを測る指標となりうる。道徳と幸福は、自ら称するものでも、想像されたものでもなく、真理を得たことの自然な結果だからである。
現代の科学技術がもたらした利便性は否定しがたいものであるが、それらはまた、大きな苦しみや不安、道徳の退廃をも招いてきた。戦争、暴力、不平等、そして利己心が絶えることなく続いているという事実は、科学と技術だけでは究極の真理たりえないことを物語っている。もしそれが究極の真理であったなら、あまねく道徳と幸福をもたらしていたはずである。
例えば、輪廻(saṃsāra)という概念は、科学がおおむね見過ごし、あるいは退けてきた真理である。この現象を探究することを拒んできたことによって、科学は人類文明を発展させ、より深い道徳意識を育む重要な機会を逃してきた。輪廻について明確で客観的な理解を得ることは、自らの行いに継続性と結果があることを認識させ、人々をより道徳的な生き方へと導くことができるだろう。
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